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今月のセミナー

-関西空港調査会主催 定例会等における講演抄録-

2025年から始まる未来 大阪・関西万博のレガシーについて

橋爪 紳也 氏

大阪公立大学 研究推進機構特別教授

●と き 2025年12月15日(月)

●ところ 大阪キャッスルホテル 6階 鳳凰の間(オンライン併用)

はじめに

 大阪・関西万博は、始まる前はいろいろなネガティブな評価がありましたが、後半になって盛り上がりました。会場に行かれた方々は楽しんでいただけたようで、すでに閉幕から2カ月たっても大阪市役所前に置かれているミャクミャクは大人気です。本日も市役所内で各パビリオンのアテンダントが着用されたユニフォーム展が開催されていましたのですが、多くの人が名残惜しそうに眺めていました。
 私は2014年、大阪府による万博誘致の最初の検討から関わっております。足掛け11年かかった国家事業が半年で終わってしまうのは、そういうものなのかと感慨も深いのですが、盛り上がった感じで幕を閉じたので安堵しています。現在、世論は「レガシーとは何ぞや」、「レガシーをどうしていくんだ」という議論のフェーズに入っております。
 関西空港でも、フランス館の展示品などいろいろなものを受け入れていただいて飾ると聞いております。各地にもいろいろなパビリオンや展示品が移設されることになっていますが、そのようなハードレガシーがある一方でソフトのレガシーも重要だと思います。本日は、そのあたりも含めてお話しをしたいと思います。
 誘致のときに使用した画像を見てください。懐かしい気持ちになります。夕日を眺めながら大阪湾を見渡せるような会場としたいと強く思いました。ただ埋立地を会場とした関係で、交通計画が非常に問題で、バスはなかなか思い通りに機能せず、大阪メトロの中央線が混雑しました。
 大屋根リングをどうするのか、は方向性が議論されつつありますが、跡地利用がどうなるのかについては、立場上、今は何もお話しできない状況です。来年度にも、もう一度呼んでいただけると、跡地を含む夢洲全体の将来構想についてお話できるかと思います。

大阪メトロ夢洲駅のデザイン

 私は今回、大阪メトロ夢洲駅の発注者側で全体のデザインや考え方、コンセプトをつくる検討会の座長を担当させていただきました。従来の大阪メトロの駅とは異なる考え方のもと、国際観光地のゲートとして魅力的な駅になったかと思います。
 安井建築設計事務所によって提案された設計案を検討会で議論しながら詳細を詰めました。一番のポイントは天井の仕様で、板金を曲げて成形しました。鉄道のダイヤグラムのイメージで菱形をつくるということでしたが、それを実現したのは東大阪の町工場の板金技術でした。
 最初のモックアップができ上がってきたときは精度が十分ではなかったので、ゼロコンマ何ミリレベルで合わせてくれという無理なお願いをして、エッジがきっちり突き合わさるようなきれいな天井にしてもらえました。近未来的なデザインと言いながら、実はこの形は町工場の職人の技ででき上がっていることをご理解いただければと思います。
 後ほど申し上げますが、夢洲と大阪の都心である弁天町・九条・本町・船場を貫いて、森ノ宮さらに東大阪から学研都市を結ぶこの東西の軸線が、新しい大阪の軸であろうと考えます。そして近未来の万博のゲートである夢洲駅と東大阪がつながっていることを形として見せるために、町工場の技でこの天井をつくったわけです。

地下空間に日本最大のデジタルの壁

 気合いを入れてつくった地下空間では、現時点で日本最大のデジタルの壁を設置しました。私の思いとしては、そのデジタルウォールを万博に入るときの「ファーストパビリオン」としたいと思いました。2030年頃にカジノリゾート(IR)ができるまで数年間ですが、時間がかかります。将来的に新たな都市型リゾートの入口にもなる駅なので、さまざまな情報が出せるような壁面をつくりたいと考えました。
 そこを「ファーストパビリオン」であると強調しようとたら、博覧会協会への配慮もあり、「パビリオンと言わないでください」という判断に至りましたので、「異世界劇場」と称しております。いろいろなイベントにも使えるような、地下鉄の駅のあり方を一つ提案させていただきました。
 1時間に1回、00分のときに、きれいな時報が流れます。私がデザイン監修をさせてもらったものですが、駅の時報としては今まで見たこともないような美しさなので、ぜひ見ていただければと思います。00分のみなので1時間に1回しか見られませんが。
 改札口の内外をつなぐ機械の上に、さまざまな文字が出せる横長のサイネージ(標識)をつくったことも、日本で初の試みだと思います。
 反対側にも同じ横長のパネルを付けました。単に駅名や出口を表示するだけではなく、万博なので世界各国の言葉で「こちらがゲートです」「ご来場ありがとうございます」などのフレーズを自由に出せるような案内サインにしました。 反対側も同じなので、帰るときも「ありがとうございました」などの言葉が各国語で出せる工夫をいたしました。よく例として申し上げるのは、温泉街に車で行くと「ようこそ〇〇温泉へ」と書かれたゲートがあり、反対側から見ると「また来てね」と書いてあるような案内サインやウェルカムボードです。それと同様の工夫をいたしました。
 万博では、大阪府市の出展のスーパーバイザー、兵庫県の出展のアドバイザー、万博首長連合の顧問、そのほか多くの地方自治体の出展に関するアドバイザーなどを担いました。また後ほどご紹介しますが、万博ではテーマウィーク・プログラムの全体の監修もさせていただきました。

万博閉会式の様子、閉会後の解体の様子など

 万博閉会式の日に行かれた方はいらっしゃるでしょうか。私はテーマウィークのスタジオにいました。10月12日に最後のプログラムが終わり、13日は万博宣言の式典と閉幕式に出席し、その後は関係者で夕方の6時ぐらいから打ち上げに入っておりました。 花火が上がり、海外パビリオンは夕方ぐらいに早く閉めていましたが、日本企業のパビリオンは真面目で、最後まで開館して来場者をお見送りしていました。方や我々は宴会をしておりました。
 では万博の閉幕後に会場に行かれた方はいらっしゃいますか?11月までは関係者パスで中に入れましたので、なんどか解体の現場を見てきました。1夢洲駅は、松の絵やポスターなどが全部剝がされて真っ白になっていました。
 11月後半の週末にも見に行きました。駅には多くの観光客が来ており、夢洲駅の写真や、工事現場の仮囲いがされたリングの写真を撮る人たちが結構いました。会場内では、各所にあった大型のミャクミャクはそろそろ撤去される直前で、台座が解体されていました。 各館の内装は全部撤収されており、11月後半ぐらいから外側の解体工事に入るところで、各館が足場で囲まれている状況でした。一部のパビリオンはもう外側の躯体も解体され始めていました。
 アメリカ館ではもう壁は外され、解体工事が入っていました。ルーマニア館や中国館は中に重機が入り壊しているところでした。私が行った日はちょうどフランス館が躯体の解体に着手した感じで、解体工事中の様子を見ることができました。ポーランド館はかなり解体が進んでいました。
 私がご縁のあったのがウズベキスタン館です。ウズベキスタン館は、日本の各地から切り出された丸太を使って2層で構成されたパビリオンですが、ちょうどその丸太を1本ずつ下ろしているところでした。ウズベキスタン館は、丸太の柱をウズベキスタンに持って行き、現地のコミュニティ施設として再利用されます。レガシーの一つとして使われるものです。
 パソナグループ館も解体途中で、博覧会期間中にいた鉄腕アトムはすでに撤去されていました。またガンダムの上半身が解体されて、足だけが残っていました。12月に入ると会場内の各パビリオンは本格的に解体が始まるので、そのための準備が順次進められていました。水は完全に抜かれており、5月下旬に大量発生しニュースになったユスリカはこの段階で全滅していたでしょう。
 私が関わっていたテーマウィークスタジオの壁には、最終日に関係者がメッセージを書き込んでいました。私が行ったとき(11月後半)はまだそこの除却が始まっていなかったので、閉会式の日に書かれたメッセージを記録として残しておこうと思い写真を撮りました。「万博ありがとう」、「万博ができてよかった」など、万博を開催してくれたことに対する感謝の言葉が多く、閉幕式の日などもそのような言葉を耳にいたしました。
 「〇〇回来たよ」自慢もあり、「31回来たよ」なんていうのも。吉村知事に聞いたら「40何回」との答えでした。皆様、結構な回数でした。「2050年また大阪で(やってください)」というメッセージも多々ありました。

大阪・関西万博のレガシーについて

 以降、4項目立てでお話をしたいと思います。
 第一には「EXPO +BEYOND」についてです。「レガシーとは何ぞや」と言われたときによく申し上げたのは、「レガシーではなくて+BEYONDである」ということです。万博でつくったものを残すのではなく、万博から始まる、万博から次に向けて越えていくものを考えることがレガシーであると。
 第二の話題が「万博のソフトレガシー」についてです。ハードだけではなくソフトが大事であることも申し上げています。
 第三には「2030年に向けて」という視点です。2030年にサウジアラビアで、大阪・関西の6倍ぐらいの巨大な万国博覧会があるので、それに向けて意識を変えていきましょうというお話。
 そして第四として「関西の将来」についてです。万博後の話で、小林先生(小林 潔司 京都大学名誉教授)ともご一緒に近畿圏の広域地方計画を進めさせていただいておりますが、関西の将来像でこの辺りの開発が動くだろうという話をさせていただきます。

1. EXPO +BEYOND

大阪・関西万博における業務

 まず「+BEYOND」についてです。博覧会の誘致からの自分の関わりをざっとご説明します。
 2014年末の段階で大阪府の担当者と進める手順について話しまして、2015年に大阪案をつくりました。そのときはまだ「大阪・関西万博」ではなく「大阪万博」と称していました。当時の松井知事には2015年にミラノ万博に行っていただき、BIE(博覧会国際事務局)とフランスの国際機関にも訪問していただいて、大阪での開催を検討することになります。
 手順としては、大阪案をつくり、それを固めて政府に持って行って政府の検討に入る、という2段階が必要です。とりまとめた大阪案を経済産業省に持って行ったとき、日本全国で他に手を挙げるところはないのか、例えば東北震災復興博覧会などがあるかもしれない、とおっしゃっている方もあったのですが、他に競合はありませんでした。そんなわけで政府も大阪だけの誘致に入ることで検討していただきました。

2025年国際博覧会の招致

 2015年にとりまとめた大阪府案は「人類の健康・長寿への挑戦」でした。人間が100歳まで生きる時代が来るので、これからは長寿をテーマとした博覧会にしましょうという案でした。
 これを政府に持って行ったところ、経産省の委員会で「まだまだ長寿と言えない国が世界中にある。伝染病があったり、紛争があったりする国々で長寿という言葉はやめようと」という議論になりました。そこでひねり出した政府案が「いのち輝く未来社会のデザイン」です。誰一人取り残さない、誰もが人生を謳歌できるような社会をつくりましょう」というものでした。
 この段階で「大阪万博」ではなく「大阪・関西万博」にしよう、ということで合意形成がなされた過程があります。松井知事の当時の思いは「会場に行くと10歳若返る博覧会にしたい」というものでした。どうすれば10歳若返ることができるのかはよく分からないですし、多分無理だと思うのですが、私は「気持ちは若返る。気のもんや」という冗談を言っておりました。「寿命が延びる」とは相対的に若返るということだろうと考えることもできます。
 誘致の当初ではフランスがライバルだったので、フランスを対象に案を作成していました。しかし2024年のオリンピックを取り、フランスは万博の候補から降りました。そこでロシア、アゼルバイジャンとの競合になり、3カ国の投票を迎えますが、結局1回目の投票で過半数を得ました。大阪府の検討を始めたのが2015年ですから、3年で決定まで至ったことになります。
 万博で私は、各地方の出展や、大阪ヘルスケアパビリオンなどにも携わりました。万博首長連合という、日本で数百の自治体が万博に向けて協力する組織もつくり、それを進めることでお手伝いをさせていただきました。
 また、後ほど紹介しますがテーマウィーク・プログラム、これはとても大事なプログラムなのですが、それの全体を監修させていただきました。誘致からここまでが、私の万博における主な業務です。

原案は細胞のようなイメージ

 誘致段階の画像を見ると分かるのですが、リングは最初からあのようなイメージでした。しかし当時は構造が未定で、上に上がれるようにするかどうかも決まっておらず、藤本壮介さんがプロデューサーで入ってから木造のリングに変わりました。伊丹空港などでも初期案の絵がずっと出ていたと思います。
 実際に誘致のときに使った絵は違うものでした。リングはパリ案や他の万博案と似ているため敢えて出さずに、植物の細胞のような、全然形が違ういろいろな要素が混ざっているような会場計画にしました。その案が非常に評価されて支持を得たのですが、最終的に開催を勝ち取ったあとに、元のリング案に戻したという経緯がありました。
 誘致段階の案では、七つの小さなリングがつながってリング間を動脈・静脈のような屋根が結んでいました。開催時期が暑い真夏なので、それに向けて屋根が必要だろうと考えてそのような絵にした記憶がありますが、これが植物的というか細胞のようなデザインで面白いという評価を得ました。上から見ると、会場全体で一つとして同じパビリオンの敷地はなく、それらの間をグネグネした丸い穴の開いた屋根がネットワークのように巡らされています。

ミャクミャクの誕生経緯

 その初期案があった上でシンボルマークの募集があり、さらにそこに出てきた案がミャクミャクの原型図だったわけです。グネグネして丸い穴が開いた屋根のイメージが形になり、そこから進化してミャクミャクになったのですが、まさかあんなに人気が出るとは誰も思っていませんでした。これが最大のレガシーかもしれません。
 私が関わった此花区淀川左岸線の正連寺川の都市公園にシンボルマークの立体モニュメントが設置されています。去年(2024年)置いたものですが常設なのでまた見ていただければと思います。

2025年日本国際博覧会の初期設定

 誘致当時、「未来社会の実験場」「共創(CO-CREATION)」をコンセプトとして、いろいろなステークホルダーが共に社会問題を解決するような未来を考えましょうと言っておりました。
 目標として、一つがSociety5.0で、経産省と経団連が掲げた新しい社会のモデルを示すこと、もう一つはSDGs達成に貢献することを挙げていました。2015年当時、世の中の誰もSDGsなんて知らなかったときにこれを謳い、国際社会に対して「我々はSDGsの達成に貢献する博覧会をします」と日本国として訴えたことは、今後のレガシーとしても大事なことだと思います。

誘致で各国に配布したパンフレット

 誘致で各国に配ったパンフレットはビジュアル重視でした。「いのち輝く未来社会のデザイン」という高い理念を掲げながら、誘致するときはピカチュウが柔道着を着ている絵、キティが着物を着ている絵で日本を前面に出して票を稼ごうという意図が感じられます。高い理想とそれらのキャラで人気を取ろうという考えの差がありました。
 しかし、実際に会場へ行くと、本当にキャラクターだらけの万博でした。今まで見た中で、あんなにゆるキャラやアニメキャラだらけの万博はなかったので、やはり日本はすごいなと思いました。今日本が世界に売る最大のコンテンツは、アニメとゲームと漫画のキャラだということを今回も改めて確認しました。
 また誘致のパンフレットでは、SDGsの万博であることも謳われていました。2015年時点でそれを訴えていたのは、早い段階でのアピールだったと思います。同時にSociety5.0、IoT、AI、ロボット、バイオテクノロジーがこれからの社会を開くための技術であることも盛り込まれました。
 また、大阪での開催なので、やはり食べ物が美味しいことや、関西万博でもあるので有馬温泉や京都の懐石料理などの情報も入れました。さらに大阪・関西はテクノロジーとイノベーションに力を入れている地域であり、なおかつ70年万博を成功させたノウハウもあり、さまざまな産業の中枢性を有していることを訴えました。
 特に私が非常に意識して入れ込んでもらったのが、なぜ大阪・関西なのかを説明する部分。「我々には『三方よし』という言葉がある。大阪商人が近江商人から学んだ『三方よし』が根付いた土地柄なので、万博を開催する意義がある」というものです。
 うまく訳すのが難しいなと思っていたのですが、翻訳のプロはさすがです。「三方よし」が「Win-Win-Win Philosophy」と訳されており、なるほどなと思いました。これが「売り手よし、買い手よし、世間よし」ですが、我々は金儲けのためだけにビジネスをしているのではなく、社会を良くするためにビジネスをしているのだということです。これはまさにSDGsそのものです。だから我々大阪商人や近江商人は昔からSDGsであり、持続的な社会環境のために貢献するものである、ということを訴えました。
 もう一つ重視したのが、博覧会の期間中とその後にどのようなことがあるのかを示すタイムテーブルを入れることでした。そこで誘致案のときに“Beyond“という言葉を使って示しました。ビジネスモデルやポリシーなど、博覧会中に発信したさまざまなトライアルをSDGsのために発展させます、ということを世界に約束して誘致を行いました。
 従って、博覧会のときのままのレガシーではなく、博覧会のときにスタートしたもの、あるいはそこから考えてさらに発展した「Beyond」を大事にレガシーとして受け継いでいこうと申し上げておりました。レガシーの議論は、「博覧会で出たものをいかに残すのか」というものばかりになりがちなのですが、そうではないのだということを訴えました。

2.万博のソフトレガシー

国際博覧会のソフトレガシーとは

 これまでの万博でも必ずソフトレガシーが示される傾向がありました。愛・地球博(2005年)のときは「地球市民」というキーワードを使っており、現在でも愛知万博の跡地ではこの「地球市民」という言葉を使った記念事業が行われています。
 愛知万博では世界の万博の歴史が始まって以来初めて、NGOや市民団体が出展することを可能としました。次の万博でもこのケースを引き継ぐかと思ったのですが、次は上海世博だったのでNGOのパビリオンなどはありませんでした。
 上海万博では何をレガシーとしたのでしょうか。同万博はアフリカの国々等に多く参加を依頼しました。従来博覧会というのは、経済成長した先進国中心の場だったのですが、「全ての国々が参加するべき」とみて、数多くのアフリカ諸国が国際機関における当該条約を批准しました。中国政府がそこに力を入れて進めたということです。実際、博覧会には多くの国が参加しました。
 上海万博の跡地に行くと分かりますが、国際博覧会に関する素晴らしいメモリアル施設が建てられています。その後、各地で万博が開催されるたびにその上海にある博覧会のミュージアムが出展を行い、博覧会の歴史と現在における意義を発信するのが慣例になっています。大阪・関西万博でも歴史展示では上海のところが絵になっていたと思います。
 このように、次の博覧会に対して従来なかったことを提案していくのがレガシーです。大阪・関西万博では何を提案したのかについて考えます。

 70年大阪万博ではどんなことが提案されたのでしょうか。万博のBIEのマークは、70年大阪万博のときに我々の先輩がつくったものです。大阪の読売新聞社のある記者が、オリンピックは五輪マークがあるが、国際博覧会はシンボルやアイコンがないので、それをつくったらどうかと博覧会協会に提案したそうです。
 そして読売新聞が出資し、世界的なコンペを行い、4万点を超える作品から今のマークを選定したのです。あのマークのデザインは日本代表の松島さんという方が出した案で、平和・友愛・人類の交歓を意味する円の中に、進歩を目指す未来への階段を表現しています。それが1970年大阪万博から使われて、次の博覧会、その次の博覧会へとフラッグとして渡されています。多くの人は忘れていますが、博覧会の持続こそが、その活動に寄与することこそが、重要なレガシーだと思います。

テーマウィーク・プログラム

 今回の大阪・関西万博で初めて始まったものとして、私が関わったテーマウィーク・プログラムがあります。前の2020年のドバイ万博でまずトライアルで初スタートしたもので、アイデアとしてはドバイ万博の計画に参与された方が出されたのですが、それを我々の万博で継承しました。
 従来の万博は、各出展者がそれぞれ催事をし、講演会をし、展示して見せるということを縦割りで行うもので、パビリオン同士や出資企業同士、国同士が横連携で何かをすることはほぼありませんでした。
 今回の万博のテーマウィークでは、毎月一つのテーマを決めて、10日から2週間程度、それぞれのテーマに沿って各館、各企業に呼びかけ、それに関する国際フォーラムや対談やいろいろな展示を展開しようと、数百のプログラムが開催されました。 例えば4月は「未来への文化共創ウィーク」でカルチャーがフォーカスされ、5月は「未来のコミュニティとモビリティウィーク」でJR東海さんにスポンサーになっていただき、未来の交通について各国の専門家で会議を開き、議論しました。6月が「食と暮らしの未来ウィーク」、7月が「健康とウェルビーイングウィーク」と「学びと遊びウィーク」でした。
 大阪・関西万博で最も注目されたのが8月のプログラムです。日本では広島、長崎への原爆投下があり、第二次世界大戦の日本の敗戦(終戦記念日)がある月で、ここに「平和と人権ウィーク」をあてました。
 世界には紛争や戦争が絶えません。人権に関する考え方も宗教も国によって違うので、どのように立ち上げ、進めるのかは非常に事務局サイドも苦労されていました。最終的に、国連を中心とした平和に対するメッセージの発信を、会場内のさまざまなイベントや対話の場を通して行いました。ノーベル平和賞を受賞された日本原水爆被害者団体協議会の方々に会場に来てもらい、国連館でスピーチいただくことも企画し、実際に実現しました。
 9月が「地球の未来と生物多様性ウィーク」、最後の10月が「SDGs+Beyondいのち輝く未来社会ウィーク」でした。その最後のフォーラムを10月12日に開催しました。私が最終プレゼンターとして、世界とネットでつなげながら進めたプログラムでした。多くの人が集まり、命の大切さを考えるのは大事なことである、といった議論を各国の専門家と共に行いました。
 「SDGs+Beyond」とは、SDGsの先に何があるのかをこれから考えましょうということです。このときの議論などが博覧会後の宣言文にも盛り込まれました。後ほどまた少しご紹介します。

方法論と枠組みを次の万博に託す

 テーマウィーク・プログラムがドバイで始まり、大阪・関西万博で本格的にプログラムとしてつくられ、実行されました。これをぜひ今後の博覧会でも考えていこうということになりました。博覧会協会で最初に立案したのは、博覧会協会が主催するプログラムで、出展企業や政府、自治体がみんな連携しながら毎月しかるべきテーマに沿って、さまざまな議論をしていきましょうというものでした。
 そこで、「対話のプログラム」と「ビジネス交流の場」を設けましょうというのが、初期設定でした。その試みを半年間、継続して実施したわけです。

ソフトレガシーとしてのテーマウィーク・プログラム

 それらのプログラムで議論された内容をもとに、最後の10月13日の閉幕の日、「大阪・関西万博宣言」を採択していただきました。私もその宣言の起草に意見を申し上げましたが、キーワードは「多様でありながらひとつ」というものでした。リングの中に各国の多様な価値観、多様な考えがあるので、これからの世界は「多様でありながらひとつ」という精神が大事というものです。
 「いのち輝く未来社会のデザイン」がテーマだったのですが、その答えが「多様でありながらひとつ」となったと考えていただければ良いかと思います。要は、多様を受け入れるような社会が大事であることをメッセージとして大きく出し、その手段として対話が大事であることを強く訴えたわけです。これを次の万博に引き継いでいきたいと考えています。
 博覧会は一般の方が楽しむ場であり、また多くのビジネスのキーパーソンと各国の政府がいろいろな形で交流できる機会を提供する場でもありますが、加えてさまざまなテーマで議論を行い、新しい論点や発想を世界へ展開するような場となってほしいと思っております。
 従来は国際博覧会の実施にあって、このような思考やプログラムが十分にはなかったのです。この仕組みを今回大阪・関西万博でつくりあげたということを理解いただければと思います。

3.2030年に向けて

万博は続く

 大阪・関西万博が終わって、いよいよ横浜の「GREEN×EXPO2027」の準備が本格化します。
 「GREEN×EXPO2027」の盛り上がりはいかほどでしょうか。「国際園芸博覧会」、いわゆる万博とは違うカテゴリではあるのですが、国際博覧会の認定も重複して受けており、関東地方では筑波科学博以来2回目の国際博覧会となります。
 「国際園芸博覧会」は、日本でいうと1990年の大阪花博、2000年の淡路花博、2004年の浜名湖花博があって、今回の横浜で4回目になります。しかし国際博覧会を兼ねた園芸博覧会では、日本では1990年の大阪花博に次ぐ、2度目の開催となります。
 「GREEN×EXPO2027」と同じ2027年にはベオグラード国際博覧会(セルビア)が開催されます。これは旧ユーゴスラビア圏で初の国際博覧会です。セルビアは当時の紛争の頃、EUと戦っていた国で、ベオグラードに行くとまだまだ当時の戦争で空襲を受けた建物などが残っています。

 そのセルビアで、ゲームや遊び、スポーツ、演劇などの文化が育まれてきたことにフォーカスし、「プレイ」をテーマとした博覧会が2027年に開催されます。そのため2027年は、横浜の園芸博覧会とベオグラード万博の両方に、業務上行かねばならないので忙しくなりそうです。
 そして2030年はサウジアラビアのリャドで巨大な国際博覧会が予定されています。万博の2年後ぐらいにはもう次の万博、さらに次の万博というふうに決まっていきます。大阪・関西万博だけが特殊なケースだと思いがちですが、我々は韓国の麗水(ヨス)万博、イタリアのミラノ、カザフスタンのアスタナ、ドバイからバトンを受けて、ベオグラードからサウジへまたバトンを渡します。このような形で見ると、博覧会はまだまだ続いていくことが分かります。
 みなさん、麗水の万博には行かれましたか? 釜山の西の方で行われた海洋博覧会だったのですが、おそらく日本人にとって興味は薄かったかもしれません。カザフスタンのアスタナ万博は中央アジア初の国際博覧会でした。こうして見ると、アスタナがカザフスタンで、ドバイがUAE、リャドがサウジアラビア、ベオグラードがセルビアというように、 20世紀前半はヨーロッパやアメリカ、オセアニアだけで開催されていた万博が、大阪万博以降、東アジアでも盛んに開催されるようになり、近年になって中東や中央アジアなどで開催されるようになってきています。博覧会の開催に向けて、手を挙げてきたが、実施に至っていない国はまだ多くあります。南米や東南アジア諸国、ロシアはまだ未開催ですし、ドバイ博は中東初かつアフリカ初だと主張していましたが、アフリカ大陸ではまだだと言って良いでしょう。これから経済成長する国々で、万博が順番に行われることになるのでしょう。
 ベオグラードが開催を勝ち取ったときのライバルは、タイのプーケットでした。私はプーケットを応援していました。リャドのライバルはローマと釜山で、釜山を応援していたけれど負けてしまいました。今後は、従来博覧会の開催国ではなかった国々で、順次万博誘致の動きが始まります。

2027年は横浜の花博が開催、キャラは「トゥンクトゥンク」

 ドバイ万博の会場は大阪・関西万博の約3倍の規模で、パビリオンの建つエリアは約4倍の面積でした。次のサウジアラビアのリャド万博は5~6倍の広さで、巨大な万博が予定されています。
 2027年の横浜の花博会場は米軍の基地跡です。戦前は日本軍の通信基地で、その跡地が返還されたものです。上瀬谷というまちで、相鉄の瀬谷駅からバスで行くことができる、横浜市と大和市の市境に近いところ。そこで花の博覧会が開かれます。大阪・関西万博は経済産業省が主管し、博覧会推進室等が中心となって内閣府と共に開催の準備がなされていましたが、こちらは国交省都市局の都市公園の担当と農水省が行うもので、半年間の実施期間があります。
 皆様もご存知だと思いますが、横浜の花博のキャラは「トゥンクトゥンク」という名前で、地球の中でハートが笑っているイメージです。このハートがいろいろ感情を表した顔になります。ミャクミャクの時代はもうすぐ終わり、再来年の春からはトゥンクトゥンクが注目されることになります。
 大阪・関西万博の会場にも、東ゲートを入ったところにトゥンクトゥンクがいたのですが、あまり興味を示している人がおらずかわいそうなトゥンクトゥンクでした。横浜の花博ではこのようなキャラが準備されています。
 このように博覧会単体で見るだけではなく、博覧会の流れを見ていただきたいと思います。

4.関西の将来

ポスト2025のプロジェクト群

 最後に関西がこれからどうなっていくのかというところで、ポスト2025年のプロジェクト群について考えます。
 「これから外国人の旅行者が多く日本に入って交流する時代が来るようになる」として、「国際集客都市」という言葉でコンセプトを私が示したのが2000年頃です。当時はまだ、インバウンドが爆発的に増えるということをあまり多くの方に信じていただけなかったのですが、現状ではすさまじい数の外国人が日本に入るようになっています。
 現在、観光庁のほうで第五次の観光立国計画をまとめるべく議論しています。そこの前提となるが年間6,000万人のインバウンドを受け入れる国になるという目標です。6,000万人というと、コロナ前の倍ぐらいです。現在の世界の観光客、外国人の受け入れ数でいうと、日本は10位ぐらいを争っていますが、6,000万人になると5位を争うレベルの観光大国になります。
 1位がフランスで1億人超えです。スペインが今年1億人を超え、この2カ国が飛び抜けていますが、その後を追う中国やアメリカなどが5,000万人ぐらいというところ。さらにその後をイタリアやトルコやドイツなどが競っている状況です。日本で現状の倍の外国人が来ることに対する課題は、今のインバウンドに対するオーバーツーリズム問題などの先にあるものではなくて、全く性質が違ってきます。
 6,000万人のインバウンドを受け入れた島国は世界にありません。英国でも5,000万人台であったように思います。日本は船か飛行機でないと国境を越えられない国であるため、従来なかった状況に入ることになります。観光庁でも検討されているそうなのですが、どの空港にどれだけ国際便を追加して着陸させるのか、こういったところをこの5年間で我々は準備しなければならなくなると思われます。
 その受け皿となる大阪・関西の地域では、高度経済成長期に開発し、一度は再開発したところをもう一度再再開発するようなプロジェクトを進めなければいけないフェーズに入っています。

大阪都市圏の将来の都市構想のイメージ(橋爪氏提案)

 私が5、6年前に描いたこれからの関西のイメージでは、京奈和道と第二名神が全部できて、奈良公園のところはまだ課題があると思われますが、大きな環状軸が道路としできてくると。そして阪神高速湾岸線の二次延伸と、名神と湾岸線の連絡道ができれば、大阪湾の環状軸ができてきます。
 また、かねてよりミッシングリンクとなっていた紀淡海峡が、京奈和道ができることによってつなげられる時期にくるのではと思います。   
 そして、その関西大環状軸と大阪湾環状軸の二つのリングの間に、かつて開発したさまざまなニュータウン、駅前の市街地再整備地域があります。そのような、開発から30年、40年、あるいは50年経っている数多くの重要な場所に再度手を入れ直す時期がきています。従って、これから再び都市化するようなプロジェクト群が数多く出てくることで、関西全体がバリューアップするようなイメージを持ちたいと考えています。

新たな関西広域地方計画のキーコンセプト

 今、小林先生と一緒に関西広域地方計画の有識者会議で検討を進めているところです。そこで出た我々の関西のキャッチコピーが「KX Kansai Transformation~まじわり、つながる、変革する関西~」です。現在検討最終取りまとめに向けて議論をしているところです。
 「KX」の意味は、「変わること」としか申し上げることができません。というのは少し雑な説明ですが、「DX」「GX」と同様に、基本は「変わっていかなければいけない」という意図を込めています。「X」が「トランスフォーメーション」を意味するのは交差点のイメージからきている部分もあると聞きますので、交差する場所でトランスフォームしていくことを表しました。
 将来的に北陸新幹線とリニアが新大阪に乗り入れます。鉄道や高速道路等も順次整備されていきます。紀伊山脈の真ん中を通って和歌山方面へ抜ける2本の道も、調査中の路線になっています。構想中の路線では、第二国土軸でようやく紀淡海峡が構想中路線となっています。
 空港としては、神戸空港の国際化が図られているので、3空港連携がこれからは大事でしょう。具体的にはどんなプロジェクトが必要か、といった議論をこれから考えていくフェーズに入ります。

大阪のまちづくりグランドデザイン 成長・発展をけん引する拠点エリアを形成  

 すでに発表はしましたが、大阪府の方のグランドデザインも私が懇話会の座長で案をまとめました。イメージとしては、都心から各方向に向ける軸線をもう一度きっちり考えながらまちづくりを進めていきましょうという考え方です。そこでは枚方駅前や泉北ニュータウンなど、これから手を入れるべきプロジェクトが示されており、再再開発や再都市化の事業が今後行われていくことになるでしょう。

大阪都市計画局が取り組む四つの広域拠点

 大阪府と大阪市で共に大阪都市計画局を立ち上げ、四つの広域拠点開発に取り組みます。うめきた2期は大体仕上がってきているので、新大阪、大阪城東部地区、夢洲・咲洲地区の4地区に関して、現在さまざまな検討がなされているところです。

うめきた2期の開発事業者の提案概要

 うめきた2期は事業が進捗しています。私は大阪市やURと一緒に最初の構想を描く側におりました。どれだけ緑を確保できるのかが先行していたのですが、駅の近くではかなりの規模の公園ができたと思います。驚いたのが北側のタワーマンションタワマンの値段の高さです。分譲の価格以上に内装を変えるのに何十億もお金がかかるような住戸を買う層がいるのです。なおかつ、自家用車をエレベーターで自分のフロアまで上げることができる点も特徴でした。おそらく日本で初の、自分のフロアに車を上げられる超高層マンションです。附置義務駐車場どころではない話です。
 これについて以前、東京のある勉強会で話題になったことがありました。東京でも検討したが、東京のお金持ちは車を1台、部屋に上げるだけでは駄目なんだということでした。フェラーリなどを何台も入れられるような、自走式の大きなガレージを持つのが本当のお金持ちで、1台だけ上げるなんて大したことない、と言われてしまいました。
 ともあれ大阪の感覚で言うと、とても画期的なタワーマンションだと思いますが、完全に所得の階級が富裕層の方々向けのまちになりそうな気がします。

新大阪を取り巻く開発やイベント等

 新大阪は、私も入った官民協議会で指定いただいて緊急整備地区になりました。ポイントはリニア中央新幹線が入ってくること、北陸新幹線が入ってくること、阪急の十三-新大阪連絡線が入ることです。
 よって、今の新御堂筋と東海道本線、山陽新幹線、東海道新幹線でなおかつ宮原操車場を稼働させたまま巨大地下駅を三つつくるという、難しいプロジェクトがこれから始まります。しかしながら、駅位置すら定まらないという段階です。リニアの駅位置が早く分かれば、新大阪駅だけでも先に動き出せると思うのですが難しいようです。

新大阪のポテンシャル(新幹線拠点駅の乗降客数)

 新大阪のポテンシャルについてですが、新大阪駅は今、博多駅と同じぐらいの乗降客数です。しかしリニア、北陸が入ると、名古屋駅を超えて、品川駅も超えます。品川駅も多分リニアが入るとまた跳ね上がるのですが、新大阪駅では現状の東京駅ぐらいまで乗降客数が伸びるという予測のもとに計画が進められようとしています。
 問題点は、それだけ多数の人々を受け入れられるようなエリアになっていないことです。今乗降客数が同じである博多駅周辺もここ数年でも様変わりしましたが、新大阪駅も駅の中の乗り換えばかりが多くてまちとして多くの人が出ないので、まち全体として人々を受容するようなエリアにしなければいけないという議論をしています。
 従来は大阪の北に新大阪があるという構図だったのですが、そうではなくて新大阪中心に見ると、いろいろな方面との接続が素晴らしく良いことがわかります。新大阪の南に大阪がぶら下がっているようなエリアのイメージに相対化したうえで、今後の新大阪の話をするべきではないでしょうか。
 また、今の新大阪は高速道路に入るまで途中の新御堂筋が混むのでなかなか難しいのですが、淀川左岸線ができるとすぐ高速に入れるので、自動車交通上も非常に便利が良くなると思います。

駅とまちが一体となったまちづくり

 伊丹空港に飛行機が降りてくるため、航空法の高さ規制であまり高いビルが建てられないので、新大阪ではどれだけ敷地をまとめて太いビルで上げていくのかを検討してまちの将来像の絵を描こうとしています。
 また、新大阪駅北側・南側、東海道線の東側、新御堂筋から西側など、鉄道で道路が分断されている一帯について、どのように、どのレベルで全体をつなぐのかというシミュレーションも描いていかねばならない段階です。

大阪城東部地区(森之宮北地区)

 もう一つ進んでいるのが大阪城東部地区と呼ばれているエリア。森ノ宮駅と大阪城公園駅があるのですが、そこに私がデザイン監修をさせていただいた大阪公立大学が2025年秋にできました。この後、将来的におそらくアリーナができ、大阪メトロも、大阪市営地下鉄始まって以来の駅ビルができ、ターミナルが一つ誕生します。中央線が森ノ宮の操車場に入っていくというイメージで今検討が始まったところです。
 その一帯は京橋、OBP、天満橋も含めて、四つの緊急整備地域の近くにあるので、全体で大阪の東側に新しい拠点をつくったらどうかということも、検討に入っています。大学を中心に「イノベーション・コア」をつくりながら、URの更新やメトロの車両基地跡の開発が入ればいいなと思います。
 大阪公立大学のキャンパスに関して、その一帯を「文化の森」にしようという提案を私はかねてよりしています。森ノ宮だから「森」なのではなく、昔この一帯は「森町」という地名でした。もっとさかのぼって明治の初めぐらいの絵図を見ると、「森村」という地名があり、その一帯が森村の畑だったことが分かります。そこに駅ができたときに森之宮神社の名前を取った経緯があるので、森ノ宮は後にできた名前であり、もともとあった地名は「森村」なので、大阪城東部の一帯は本来「森」と呼ぶべきところです。
 昔、生玉神社が大阪城の近くにあり、その東側に森が広がっているというのがもともとの「森」という地名の由来です。しかし明治になって砲兵工廠ができ、練兵場もあったのですが、その後練兵場が移転。大阪公立大学が入った大阪城東部地区が城東練兵場になります。そこにも「森」という地名が書かれています。
 戦前の状況では、城東線が敷かれ、その西側に砲兵工廠、東側に城東練兵場がありました。戦争が激しくなってくると、付近に砲兵工廠の関係の工場が建ち、すさまじい爆撃を受けることになります。
 戦後になって大阪城は公園化されます。その一帯は軍事拠点の跡地でしたが、大阪は住宅難だったので、URが団地をつくり、JRと大阪メトロが車両基地をつくり、下水処理場をつくり、ゴミ焼却場をつくり、大阪の戦後復興に必要だったさまざまな機能を収めました。それをもう一度我々が今から時間をかけて新しいまちにしていくことになります。
 再開発した地域の再再開発、という言い方がいいのかどうか、言葉も少し考えなければなりませんが、もともとあった「森」という地名をうまく展開できればと考えました。森ノ宮全体は「文化の森」で、大阪公立大学は「知の森」にしようと提案しました。どこが「知の森」かと言うと、大学の建物の下側にある柱を枝のようにデザインしてもらい、「知の森」のイメージとしました。このように森ノ宮のまち全体にいろいろな文化的な施設を集めていきたいと考えています。

夢洲・咲洲地区~夢洲まちづくり構想(2017年8月策定)~

 夢洲万博跡地の隣に統合型リゾートができるところは、もともと大阪市の検討で「国際観光都市」という機能を入れることで、「ジャパンエンターテインメント」という言葉を掲げていました。本来は2024年頃にはIR、カジノリゾートがソフトオープンして、万博を経て跡地活用を行い、水面のところをまた埋め立てて変えていくという計画で、IR、カジノリゾートのほうが1期、万博が2期でした。
 しかし、IR法の成立や区域認定が遅れたため結局順序が逆転し、先に万博がきて、万博跡地と統合型リゾートをほぼ同じく2030年ぐらいに間に合わせることになろうかと思います。
 もともと南港と北港に分かれており、大阪湾を埋め立てて出来ていく島の一つだったのですが、それがオリンピック招致に失敗し、バブルがはじけてなかなか動かなかった南港咲洲の開発等々があって、しばらく動きがなかったのですが、万博の誘致とIRの誘致でその島が観光地に変わることになりました。それをサポートするべく、舞洲と咲洲にもコンベンション機能や観光関連の受け皿を集約していこうとなりました。
 大阪のベイエリアはよく「時計が止まっている」と言われていました。「ベイ法(大阪湾臨海地域開発整備法)」をつくり、関空をつくりましたがその後はベイエリア開発が止まっていたのです。その時計がやっと万博で再び動き始めたというのが私の感覚で、これをうまく動かさずにまた時計が止まると、まちづくりが終わるでしょう。私はこのようなことを繰り返し申し上げてきました。
 先ほど今申し上げたように、夢洲・咲洲エリアについて、「ベイ法」をつくったときの考えで、ベイエリア軸と東西軸という軸を大阪市などが強調していた時期が1990年代にありました。それをもう一度実行するために、関空から大阪の都心を経て、神戸空港から淡路方面あるいは播磨に行けるようなベイエリアの軸線をきっちり考えるようになりました。
 東西軸も、戦後復興計画の時代から東西軸と言われ、90年代のときも東西軸と言われており、南港のコスモスクエアから弁天町を経て、岩崎橋、OBP、鶴見緑地、といった東西軸構想がありました。それもまたバブル崩壊で止まり、今回また東西軸を我々は考えようとしているわけです。
 ただ、現在示されている東西軸は幅が広すぎて、天王寺、難波、中之島など、梅田以外全部入っています。中之島の川筋とメトロの軸線があり、東に行くと東大阪の高い技術を持った町工場のあるエリアがあり、けいはんな学研都市があり、奈良につながります。
 今は大阪メトロと近鉄のパンタグラフの電気の取り方が違うので乗り入れができませんが、近鉄が検討されている新しい車両ができれば乗り入れが可能になります。そうなれば夢洲発で近鉄奈良線に入って、西大寺で乗り換えて八木から伊勢志摩あるいは京都に行けます。夢洲発・京都行き、夢洲発・賢島行き、究極は夢洲発・名阪特急名古屋行きなど、従来なかった軸線が生まれます。
 けいはんな学研都市が今後、どのような考え方で次のステージに入ってくるのかは一つのポイントだと思います。従来から学研都市のクラスターは順番にできてきているので、広域とどうつながっていくのかということです。けいはんな学研都市も“グレーターけいはんな”で他のエリアとつながっていく発想が必要ではないかと申し上げているところであります。
 このような東西軸を考えながら、もう一度大阪・関西の将来を考えようと取り組んでおります。

新しい研究拠点 2026年4月~

 最後ですが、実は2026年3月で大阪公立大学を定年退官いたします。一旦は退官しますが、26年、大阪公立大学に新しい研究拠点をつくろうと考えております。名称は「大阪アーバンデザイン&マネジメントセンター」で、長いので「UDMC」という愛称で呼ぼうと思っています。
 まだ立ち上げだけが決まっており、何をするのかはこれから考えて参ります。先ほど申し上げた大阪城東部のエリアと夢洲などの開発を見ながら、新しい大阪の活力を生むような軸線を東西につくりたいという思いを持って研究所を立ち上げます。大阪らしい地域デザインの研究拠点にしたいと思っております。
 どのようなステークホルダーの方と一緒に進めるのか、そこもまた来年立ち上がってから考え始めますので、ぜひ関西空港調査会とも一緒に研究調査や事業ができればと考えておりますので、よろしくお願いいたします。
 万博のレガシーと言いながら、最後は私のレガシーの話で終わりましたが、本日の講演は以上でございます。ご清聴ありがとうございました。

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